トルコ

トルコ

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基本情報

国名 トルコ共和国(Republic of Turkey)
面積 81万4,578平方km(日本の約2倍)
人口 7,780万4,122人 (2010年推計)
首都 アンカラ
言語 トルコ語(公用語)、クルド語、アラビア語
宗教 イスラム教99.8% (大部分はスンニー派)
通貨 トルコ・リラ 1 Turkish lira (TL) = 100 kurus
(2005年1月1日 旧100万リラ→新1リラへ呼称単位が変更された)
為替レート 1ドル=1.5548リラ(2009年)
日本との時差 -7時間
ビザ
ビザ
観光・短期商用目的で滞在期間が90日以内ならば、ビザは 不要です。
パスポート
滞在日数プラス6ケ月以上残存有効期間のあるもの。

※ビザやパスポートなどの情報は予告なく変更されることがあります。
必ず、大使館、領事館などで確認してください。
国旗  
国際電話  

 
   
   
   

地勢・気候

地図
位置:南西アジア(ボスポラス海峡の西は時々ヨーロッパに含まれる)。黒海に面し、ブルガリア、グルジアに接している。そしてエーゲ海と地中海に面し、ギリシャとシリアに接している。
面積
全面積: 78万580平方 km
陸地の面積:77万760平方 km
国際紛争:エーゲ海におけるギリシャとの、複雑な領海、領空争い。キプロス問題。シリアとのHatay問題。チグリス・ユーフラテス川の開発計画に関して川下の川岸(シリアおよびイラク)での争いが続いている。
気候:暑く乾燥した夏。温暖で湿気のある冬。内陸部は厳しい冬。
イスタンブールの気温と降水量 イスタンブールの気温
地形:大部分は山であり海岸線に沿って狭い平地がある。中央部は高地(アナトリア地方)
天然資源:アンチモニー、石炭、クロム、水銀、銅、ほう酸塩、硫黄、鉄鉱石
:黒海とエーゲ海へつながるトルコ海峡(ボスポラス海峡、マルマラ海、Dardanelles)をコントロールする戦略的な位置。

政治

正式名称:トルコ共和国(英語: Republic of Turkey/トルコ語: Turkiye Cumhuriyeti)
政体:共和主義議会制民主主義
首都:アンカラ
独立:1923年10月29日 (オスマン帝国の相続国)
憲法:1982年11月7日
司法制度:さまざまな大陸の法制度から由来している。
投票権:21歳以上の国民
元首: アブドゥッラー・ギュル大統領(2007年8月28日就任:任期5年)
行政府
政府の長:レジェップ・タイップ・エルドアン(Mr. Recep Tayyip ERDOGAN)(公正発展党)
立法府:一院制 (550議席 任期4年 複数政党制)
トルコ大国会(Turkiye Buyuk Millet Meclisi)
:2007年7月22日選挙結果、(次回は、2011年)
結果
政党 議席
公正発展党(AKP) 335
共和人民党(CHP) 101
民族主義者行動党(MHP) 70
平和民主党(BDP) 20
民主左派党(DSP) 6
民主党(DP) 1
トルコ党(TP) 1
無所属 7
総議席数 541
トルコ大国会のサイトより
政党と指導者
公正発展党(AKP):中道右派、イスラム主義政党
共和人民党(CHP):中道左派
民族主義者行動党(MHP):トルコ民族主義による極右政党
平和民主党(BDP): クルド系政党
民主左派党(DSP): 旧共和人民党の左派メンバーを中心に結成された政党
民主党(DP):中道右派 、共和人民党の非主流派メンバーを中心に設立。正道党 から名称変更
トルコ党(TP):イスラム系政党

■軍事

防衛費 :69 億ドル、GDPの4.1%(1993年)
:クルド労働党(PKK)の独立運動に対する政府の対反乱活動経費の70億ドルは含まれていない

経済

概況
1980年代のほとんどを通じて経済状況は好調だったが、その後1995年初頭よりトルコは、それまでの15年間のなかでもっとも壊滅的な経済危機を被った。
1994年1月、2つのアメリカの格付け機関により、トルコの国際的な信用等級を下げられたことに発した危機は、幾年もの放漫な財政と通貨政策により、インフレを増大させ、公共債務、マネーサプライ、当座勘定不足を急増させた。
1994年4月、チルレル首相は、政権基盤の弱い連立政権に国内および国際的な信用を取り戻すために、厳しい法案を導入した。3カ月のち、IMFは7億4000万ドルのIMF予備貸し付けを承認しその計画を保証した。 経済はそれによって改善の兆候を示していたが、長期間の実質的な成長のために必要な厳しい構造改革に対する様々な政治的障害に、チルレルは打ち勝つことができなかった。結果として、経済は最悪の事態となった。
1994年の終わりには、インフレは、126% (年率)を記録し、実質GDPは、一年全体で概算5%下落した。トルコの戦後の歴史の中で最悪の下落であった。 同時に、政府は、IMF合意において規定されている1994年の目標達成への鍵を見失った。 財政不足は、政府の目論見をはるかに越え、47%近くになると見積もられ、トルコリラの価値は予想よりも5〜7%下落した。
トルコ国家に対する武力闘争で、その経済的負担を増やそうとするクルド労働者党(PKK)の軍事行動は、トルコ経済に新たな問題を付け加えた。旅行者に対する攻撃は、GDPの約3%にもなる観光収入を危機にさらしている。一方トルコ南東部でその大部分の暴力事件が起こっているため、経済活動はかなり落ち込んでいる。
トルコ当局はいまやIMFと1995年のもっと現実的なマクロ経済の目標を規定し、予備貸し付けの残っている基金の貸し出しを認めるよう、交渉した。
トルコでは、近代的な工業と商業が、伝統的な家族農業、手工業と共存している。
民間企業は力強く急速に成長している。しかし基礎的な産業、銀行業、運輸、通信では政府は未だ大きな役割を果たしている。最も重要な産業で最も巨額となる輸出品は、織物と衣料である。それはほとんど手仕事による。現在の経済状況は、強い成長をともなっている半面、厳しいアンバランスを伴っている。
実質GDP成長率は、1997年には約7%まで伸びた。しかしインフレ率は年99%に上った。しかも公的部門での財政赤字はGDPのほぼ10%に上っている。トルコ政府政府の全歳入のほぼ半分が、国の負債の利子の支払にあてられているという、ひどい財政循環にとらわれている。1997年7月にユルマズ首相に率いられた祖国党政権は、多大な増税と非収益部門の支出カットを含む1998年度予算を決定した。しかしこれらの増収は利子の支払を埋め合わせだけだった。政府はまた社会福祉および税システムを改革し、民営化のスピードを早めたが、これらの改革は激しい政治的抵抗にあった。政府はその近隣諸国との貿易を増やそうとしたが、トルコの貿易の大部分はなおOECD諸国とである。
トルコは、1996年1月にEUとの関税同盟を履行したにも関わらず、トルコに対する外国からの直接投資は、年間約5億ドルと低いままである。それはトルコの高いインフレ率と不安定な政治状況に対し、潜在的な投資者が危惧を感じているためと思われる。1998年に経済成長は約4%に落ち、インフレ率は下がったが、政府のインフレ率50%という目標は、楽観的すぎるように思われる。
GDP(MER): 6,153億2,900万ドル (2009年:IMF)
一人当たりGDP(MER):8,723.406ドル (2009年:IMF)
GDP(PPP): 8,800億6,100万ドル (2009年:IMF)
一人当たりGDP(PPP):12,476.449ドル (2009年:IMF)
国内総生産実質成長率:-4.743% (2009年:IMF)
インフレ率(消費者物価):6.526% (2009年:IMF)
失業率 :14.1% (2009年推計)
国家財政(2009年推計)
歳入: 1,388億ドル
歳出: 1,725億ドル
輸出: 260億ドル (2009年推計)
商品:アパレル、食品、繊維、金属製造、輸送用機器
相手国:ドイツ9.58%、フランス6.08%、イギリス5.79%、イタリア5.77%、イラク5.02%(2009年)
輸入: 467億ドル (1997年推計)
商品:機械、化学品、半製品、燃料、輸送用機器
相手国:ロシア13.99%、ドイツ10.01%、中国9%、アメリカ 6.09%、イタリア5.45%、フランス5.03%(2009年)
対外債務:2,683億ドル (2009年推計)
工業生産: 成長率 -11.8% (2009年推計)
発電量:1,984億kWh (2009年推計)
製造業:繊維、食品加工、自動車、エレクトロニクス、鉱業(石炭、クロム、銅、ホウ素)、鉄鋼、石油、建設、木材、紙
農業:GDPの9.3%を占める
タバコ、綿花、穀物、オリーブ、テンサイ、ヘーゼルナッツ、パルス、柑橘類、畜産
通貨:トルコ・リラ
1 Turkish lira (TL) = 100 kurus
(2005年1月1日 旧100万リラ→新1リラへ呼称単位が変更された)
為替レート:1ドル=1.5548トルコ・リラ(2009年)

■運輸・交通

鉄道
全長:10,386 km (1,033 km は電化されている)
主要道路
全長:320,611 km
舗装:29,915 km (高速道路 862 km を含む)
未舗装:290,696 km (1992年)
通信
電話:1430万回線
ラジオ局: AM 15、 FM 94、 短波 0
テレビ局: 全国ネット15、地方局15、ローカル局229

歴史

13〜16世紀
1200年代後半のモンゴルの侵入によりセルジューク・トルコは弱体化した。そして幾つかの小さな国家に分裂した。その中の一つがオスマン(1258〜1326年)に率いられた西アナトリアのオスマン・トルコである。オスマン・トルコは次第に勢力を伸ばした。
1453年、コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)は、オスマン・トルコのムハマット2世の手に落ち、ビザンティン帝国は滅亡した。
1世紀後、1520年即位したスレイマン大帝の下で、オスマン・トルコは文化的絶頂期を迎え、その支配はバルカン半島、東ヨーロッパ、西アジア、北アフリカまで拡大した。この繁栄は約200年続いた。
18世紀
1768年から1774年のロシアとの戦争を契機にオスマン・トルコは衰退し始めた。
1789年から1792年、第二次トルコ・ロシア戦争により領土は縮小した。
19世紀
1829年、ギリシャが独立し、1878年、ルーマニア、ブルガリアが独立した。
1805年、ムハマッド・アリはエジプトの支配を取り戻し、独立戦争を始め、1839年オスマン・トルコの支配から逃れた。
チュニジアは1881年、フランスの保護国となった。
20世紀
アルバニアとマケドニアは1912〜13年のバルカン戦争後、支配下から脱した。
第一次世界大戦の敗北により、オスマン・トルコはトルコ外の領土ーシリア、パレスチナ、イラク、アラビア半島を失った。トルコの大部分を占めるアナトリアはギリシャ、イタリア、フランス、ロシアに分配され、トルコには実質的に何も残らなかった。イスタンブールのオスマン・トルコ政府は連合軍の傀儡だった。
1920年、現代トルコの父と言われるケマル・アタチュルクは、軍の残存兵を集め民族権利防護団を結成した。1921年、侵攻してきたギリシャ軍を撃破した。彼は1922年、弱体化したオスマン・トルコの支配者たちを追放し、オスマン・トルコは崩壊した。 1923年ギリシャ軍が優勢だった地中海沿いの都市イズミールで勝利し、ギリシャ軍を追い払った。 1923年7月24日、ローザンヌ条約が連合軍とかわされ、トルコは国家として承認された。トルコの領土はオスマン・トルコに比べはるかに小さくなったが、国境線は保証された。
独立
1923年10月29日、トルコ共和国が樹立され、ケマル・アタチュルクは大統領に就任した。そして首都をアンカラへ移した。
アタチュルクは急速な近代化改革に着手した。一夫一婦制の導入、アラビア文字をラテン文字に改め、衣服を洋服に変えるなど、西洋的な制度を導入した。
1952年12月、NATOに加盟した。
1960年、軍事クーデターが起こり、メンデレス民主党政権が倒された。
1980年、オブレンが無血クーデターにより権力を握り、全土に戒厳令を出した。
1983年、総選挙で祖国党オザルが首相に就任し民政へ復帰した。
1989年、オザルは大統領に就任した。
1991年、総選挙で祖国党は大敗し、正道党のデミレルを首相とする連立政権が成立した。
1993年4月、オザル大統領が死亡し、後任としてデミレルが大統領に就任した。これに伴い、チルレル前経済担当相が首相に就任した。

人々

人口:7,780万4,122人 (2010年推計)
人口構成(2010年推計)
年齢 構成比 女性 男性
0-14 歳 27.2% 1,022万3,260人 1,070万1,631人
15-64 歳 66.7% 2,532万7,403人 2,589万6,326人
65 歳以上 6.1% 252万6,544人 213万360人
人口増加率:1.272%(2010年推計)
出生率: 人口1,000当たり18.28人 (2010年推計)
死亡率:人口1,000当たり 6.1人 (2010年推計)
乳児死亡率(1歳以下):出生1,000人あたり24.84人 (2010年推計)
平均寿命 (2010年推計)
男性 女性
70.37歳 74.19歳
民族構成:トルコ人80%, クルド人20%
宗教:イスラム教99.8% (大部分はスンニー派)、 その他0.2% (キリスト教およびユダヤ教)
言語:トルコ語(公用語)、クルド語、アラビア語
識字率(15歳以上): (2004年推計)
全人口平均 男性 女性
87.4% 95.3% 79.6%
労働力:2,160万人
職業(1996年推計)
農業 サービス業 工業 建設業
43.1% 30.1% 14.4% 6.0%
注: 150 〜180万人のトルコ人が海外で働いている。 (1994年)

地図

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