イエメン

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基本情報

国名 イエメン共和国(Republic of Yemen)
面積 527,970平方km (日本の約1.4倍)
人口 2,349万5,361人 (2010年推計)
首都 サナア
言語 アラビア語
宗教 イスラム教
通貨 イエメン・リアル(YR)
為替レート 1ドル=198イエメン・リアル(2006年)
日本との時差 -6時間
ビザ
ビザ
入国には、ビザが必要です。
パスポート
3ケ月以上残存有効期間のあるもの。
旅券等にイスラエルへの入国記録があると入国できません。

※ビザやパスポートなどの情報は予告なく変更されることがあります。
必ず、大使館、領事館などで確認してください。
気候  
入国ルート  
国際電話  
国の概要 フランスの作家、ポール・ニザンの「アデン アラビア」に書かれている「アデン」とは、イエメンの第二の港湾都市です。
コーヒー好きなら、「モカ」は有名ですが、この名称は、紅海に面したイエメンの港町「モカ」から積出されたので、この名前が付けられました。
   
   

地勢・気候

地図
位置:中東、オマーンとサウジアラビアに朝まれ、アラビア海、アデン湾、紅海に面している。
国土の面積:527,970平方km
陸地の面積:527,970平方 km
国際紛争:サウジアラビアとの国境が確定していない部分がある。イエメンとオマーンの国境を確定した条約は、1992年12月批准された。
気候:大部分は砂漠。西部の海岸沿いは暑く湿気がある。西部の山は季節のモンスーンによって影響される。東部は暑く乾燥した砂漠。
アデンの気温と降水量
地形:狭い海岸地域の平地とその裏には上が平坦な丘と険しい山がある。アラビア半島の内陸部の砂漠に入り込む中央の傾斜面のなかに高台になっている砂漠状の平地が散在している。
天然資源:石油、魚、岩塩、大理石、石炭の小さな炭鉱、金、鉛、ニッケル、銅、西部に肥沃な土地

政治

正式名称:イエメン共和国
(英語 Republic of Yemen /アラビア語 Al Jumhuriyah al Yamaniyah)
政体:共和制
首都:サヌア
独立:1990年5月22日
イエメン共和国は、1990年5月22日 建国された。イエメン・アラブ共和国(北イエメン)とイエメン人民民主共和国(南イエメン)との統合である。それ以前の北イエメンは、1918年11月、オスマン帝国から独立した。南イエメンは、1967年11月30日イギリスから独立した。
憲法:1991 年5月16日
法律制度:イスラム法、トルコの法、イギリスの慣習法、地元の部族の慣習上の法に基づく。
投票権:18歳以上の国民すべて
行政府
国家元首:大統領アリ・アブドラ・サレハ( Ali Abdallah SALIH )(1990年5月22日就任、前北イエメン大統領)
政府の長:首相アリー・ムハンマド・ムジャッワル (2007年3月31日就任)
立法府: 一院制 議席数301  任期6年
政党:イエメンでは40以上の政党が活動している。しかし大きな影響力を持っているのはわずか3つである。1994年5月から7月までの内戦以来、サレハ大統領の国民全体会議(GPC)と、イエメン改革連合は連立政権を作っている。イエメン社会党は、旧南イエメンで政権を握っていた党で、野党勢力として再編成された。
国民全体会議(GPC):党首 アリ・アブドラ・サレハ大統領
イスラム改革連合(Islaah):党首 アフマル議長(Shaykh Abdallah bin Husayn al-AHMAR)
イエメン社会党 (YSP):党首アリ・シャリフ・ウバイヤド(Ali Salih UBAYD)
国旗: 上から赤、白、黒の3つの等しい水平な帯。白い帯の真ん中に水平に2つの緑の星のあるシリアの国旗や3つの緑の星(アラビア文字がついている)のあるイラクの国旗に似ている。また白い帯の真ん中に象徴的な鷲があるエジプトの国旗にも似ている。

■軍事

軍事費: 4億700万ドル、 GDPの5% (1998年推計)

経済

概況
北部の都市サヌアは統一されたイエメンの政治的首都であり、南部の都市アデンは、精製所と港湾設備を持った経済と商業の首都である。
イエメンの経済発展は、イエメンの石油資源開発に対する外国からの援助に大きく頼っている。
旧南イエメンが積極的に北イエメンと統合したのは、ソビエトからの経済援助の減少によるためだった。
北イエメンは国内産業と農業が低水準のため、必需品すべてを実際に輸入に頼るようになった。かつて食糧生産で自給していた北イエメンは大きな輸入国になった。かつて綿、果物、野菜などの輸出作物のために使われた土地は、qatと呼ばれる低木に変わった。その葉は刺激性効果があるため、イエメン人は好んで噛む。しかし大きな輸出市場を持っていない。
旧南イエメンの経済は停滞していた。その理由の一部は、生産の決定、投下資本の配置、輸入品の決定が中央の管理によっていたためだ。イエメンの大きな貿易赤字はイエメン人が海外で働く送金と外国の経済援助で償われていた。
湾岸危機以来、海外労働者の送金額は大きく減少した。
1994〜95年の成長は、石油価格の低下、急激なインフレ、政治の行き詰まりによる経済協力と指導力の欠如などのため停滞している。しかしながら、1995年2月のサウジアラビアとの和平合意と石油価格上昇の見込みは、イエメンの経済見通しを明るくした。
1996年6月の洪水により農業分野では貴重な表層土の多くが失われ、食料の輸入が急増した。
1998年には、石油生産と全GDPは適度に増加することが期待される。
将来の経済発展は経済を多様化させるための外国からの投資を引きつける事にかかっている。 <
GDP(MER): 251億3,100万ドル (2009年:IMF)
一人当たりGDP(MER):1,060.962ドル (2009年:IMF)
GDP(PPP): 582億1,800万ドル (2009年:IMF)
一人当たりGDP(PPP):2,457.776ドル (2009年:IMF)
国内総生産実質成長率:3.866% (2009年:IMF)
インフレ率(消費者物価):8.833% (2009年:IMF)
失業率:35% (2003年推計)
国家予算: (2009年推計)
歳入:70億200万ドル
歳出:98億400万ドル
輸出:58億1,200万ドル (2008年推計)
商品: 原油、コーヒー、乾燥・塩づけ魚、液化天然ガス
相手国:中国36%、タイ 17.63%、インド13.54%、 南アフリカ 6.16%、日本5.49%、 UAE 4.99% (2009年)
輸入: 75億1,800万ドル(2008年推計)
商品:食品、機械および装置、化学物質
相手国: 中国13.98%、 UAE 12.3%、インド 8.63%、サウジアラビア5.8%、アメリカ4.52%、ブラジル4.51%、トルコ 4.51%、クウェート 4.33%, フランス4.24% (2009年)
対外債務:65億5,200万ドル(2009年推計)
発電量:56.65億kWh (2007年推計)
産業:原油生産、石油精製、綿繊維や皮革製品の小規模生産、食品加工、工芸品、小型アルミ製品工場、セメント、商業船舶修理、天然ガス生産
農業: GDPの8.8% (2009年推計)
穀物、果物、野菜、豆類、クァット、コーヒー、綿、乳製品、家畜(羊、ヤギ、牛、ラクダ)、鶏肉、魚
通貨:イエメン・リアル
Yemeni rial (new currency); 1 North Yemeni riyal (YR) = 100 fils
1 South Yemeni dinar (YD) = 1,000 fils
為替レート:1ドル= 203.05イエメン・リアル(2009年)

■運輸・交通

鉄道:0 km
幹線道路
全距離:64,725km
舗装:5,243 km
未舗装: 59,482 km (1996年推計)
通信
電話:131,655回線(1992年推計)
ラジオ局: AM 4, FM 1, 短波 0
ラジオ台数:325,000台(1993年推計)
テレビ局:10
テレビ台数:10万台(1993年推計)

歴史

15〜17世紀
1636年、ザイド派のイマムがオスマン帝国による占領から、全イエメンを解放した。
ザイド派の領土は、東部のハダラマウトから北部のアシールまでいたり、統治は200年以上に及んだ。南部ではラヘイのスルタンによりザイドの統治は1728年に終わった。しかし高地ではラシドの統治はオスマン帝国が戻る1849年まで続いた。
15〜17世紀
1839年、イギリスはアデンを占領した。そしてアデン保護領とされるものを作った。その町はインドへの海上ルートに沿った港を持った重要な地であった。そして掘り抜き井戸があった。飲み水を供給した。
南部イエメンの総植民地化が進んだ。イギリスと地域の首長との間で一連の保護条約が交された。
1950年代には、イギリスの勢力はハダラマウトまで達した。アラビアのトルコ領とイギリスの保護領、南アラビア保護国の間には、ヴァイオレットラインが引かれた。その線は後に1960年代の北イエメンと南イエメンの境界線となった。
1849年、オスマン帝国はイエメンに再度戻った。最初ティハマを占領し、1869年のスエズ運河の開通後は、高地に勢力を伸ばした。1882年までにはザイディの首都サーダを占領した。
第二次のオスマン帝国の占領は全イエメンに及んだが、地方の首長はトルコに対して反乱を起こした。
20世紀
1904年、ザイド派の指導者は、ヤフヤ・イブン・マハマッドとなり、トルコに対する効果的な反乱を組織した。
1909年、別の反乱が、サイード・ムハマッド・アル・イドゥリシの指揮の元、北部ティハマの部族によって起こった。
1911年、イマーム・ヤフヤとザイード派にある種の自治権を与えるという平和条約が交渉されたが、トルコ軍とイドゥリシ軍の戦争はティハマで続いていた。
第一次世界大戦で弱体化したトルコ軍は、1919年イエメンから撤退した。イマーム・ヤフヤはイエメン国王となった。1923年のローザンヌ条約で、トルコは公式にアラビア半島の全領土を放棄した。
イマーム・ヤフヤはティハマでの統治を確立させた。イドゥリシ軍は1920年頃のアジール地域へと退却した。しかしイドゥリシ軍はサウジのイブン・サウドと同盟を結んだ。1934年のサウジーイエメン戦争によって、イマームはアシルを40年間サウジ領とする条約を結ばざるを得なかった。1970年この条約は20年間延長された。
1948年、イマーム・ヤフヤは南部の暴徒に暗殺された。彼の息子イマーム・アフマドが跡を継いだ。彼は1951年、アメリカ、イギリス、エジプトと外交関係を結んだ。1956年、ソ連と結んだ。
イマーム・アフマドの治世の間、イエメンは孤立し開発されなかった。1960年代初期でさえ、舗装道路はなく、医者もほとんどいなかった。学校はコーランを教える学校だけだった。
1950年代、イエメンとアデン保護国の間では国境紛争が相次いだ。
1958年、イエメンは、エジプト、シリアとともにアラブ連合共和国を形成した。しかし、1962年、シリアの脱退により、アラブ連合共和国は消滅し、元のイエメンに戻った。

イエメン・アラブ共和国
イマーム・アフマドは1962年9月に亡くなった。彼の息子ムハマッド・アル・バドルが跡を継いだ。
その1週間後、アブドラ・サラール大佐率いる陸軍将校によるクーデターが起こった。この背後にはアラブ連合共和国がいた。新政権はイエメン・アラブ共和国を樹立した。
ムハマッド・アル・バドルは北部に逃れ、イギリスとサウジアラビアの支援を得て、8年に及ぶ内戦を始めた。
イエメン・アラブ共和国側はエジプトとソビエトに支援されていた。共和国側内部では権力闘争が始まった。エジプトは手を引いた。権力闘争に勝った党派は、サウジアラビアと友好関係を結ぶことを決定した。サラール大統領はイラクへ亡命した。カディ・アブドゥル・ラーマン・アル・イリャニが大統領となり、ハッサン・アル・アムリ将軍が共和国軍の長となった。 1970年、内戦は共和国軍の勝利に終わった。イマーム・アル・バドルはイギリスへ亡命した。
南イエメン人民共和国
イギリスはアデンの周りを維持しているだけで、31の首長国によって作られた南アラビア保護国は北部に対する緩衝としての役目でしかなかった。
1960年代初期、民族主義がこの地域に燃え上がった。北部では共和国と王国との内戦が行われていた。イギリスは王国を支援していた。北部での共和主義者に対して、南部では南イエメン民族解放戦線はマルクス主義者と民族主義者で構成されていた。
1963、4年には民族解放戦線(NLF)のゲリラ闘争は、拡大しアデンにまで拡がってきた。1967年後半に、イギリスはアデンから撤退した。
1967年11月30日、南イエメン人民共和国が誕生した。
カフタン・アシュ・シャービが大統領に就任した。イギリスの撤退により、経済は崩壊の縁にあった。望みは共産圏からの援助だけだった。
1969年、カフタン・アシュ・シャービ大統領は辞任し、サラム・ルバヤ・アリが大統領となった。
1970年、国名はイエメン人民民主共和国に変わった。

統一
1989年、ソビエトが崩壊した。共産圏の援助が止まったイエメン人民民主共和国は、経済的に破産したも同じだった。政府は隣国イエメン・アラブ共和国に助けを求めた。
1989年11月30日、両国首脳の会談で統一が決定した。
1990年5月22日、両国は統一され、イエメン・アラブ共和国となった。大統領には、北イエメンのサレハが就任した。
しかし数カ月後には南北の対立が鮮明となった。
1994年5月、南北の対立は激化し、本格的な戦闘に突入した。7月、北イエメンがアデンを制圧し、内戦は終わった。

人々

人口:2,349万5,361 人 (2010年推計)
人口構成 (2010年推計)
年齢 構成比 女性 男性
0-14 歳 43.9% 4,925,523人 5,108,423人
15-64 歳 53.5% 6,013,334人 6,215,999人
65 歳以上 2.6% 309,207人 285,752人
人口増加率:2.713% (2010年推計)
出生率:人口1,000人当たり34.37人 (2010年推計)
死亡率:人口1,000人当たり7.24人 (2010年推計)
乳児の死亡率(1歳以下):出生1,000人当たり56.77人 (2010年推計)
平均寿命 (2010年推計)
男性 女性
61.35歳 65.47歳
民族構成:主にアラブ人。西部の海岸地域にはアフリカ系アラブ人 南部には南アジア人。大都市には小さなヨーロッパ人居住区がある。
宗教 :イスラム教(スンニー派およびシーア派)、少数のユダヤ教、キリスト教、ヒンズー教
言語:アラビア語
識字率(15歳以上):(2003年推計)
全人口平均 男性 女性
50.2% 70.5% 30%

地図

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