エジプト

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政治

ムスリム同胞団の歴史

ムスリム同胞団は、1928年、小学校教師ハサン・アル・バンナーによって創設された。
当初バンナーの勤務地であるイスマーイリアで活動したが、1932年本部をカイロに移した。数年間でムスリム同胞団は勢力を急激に伸ばした。その思想は、スンニー派イスラムの教義に忠実であれという宗教改革のおもむきがあったが、第二次世界大戦中には次第に政治勢力となっていった。主要な敵はエジプト王朝、エジプトを植民地としているイギリスなどであった。
第二次世界大戦が終わると、同胞団はエジプトの独立を指向し、イギリス寄りの政府要人に対するテロを活発に行った。そのころの支持者は100万人に上ると言われている。
政府の弾圧が激化し、1946年バンナーは政府により暗殺された。
1952年には、反英闘争に大衆動員を組織し、ナセルを中心とした自由将校団に協力し、同年7月の革命に貢献した。
しかしナセルは政権を握ると次第に左傾化し、同胞団が期待したイスラム的政策を取らなかった。
そのため、ナセルとムスリム同胞団は対立するようになり、ナセルの暗殺未遂事件が起こった。これによりナセルはムスリム同胞団を非合法化し、弾圧した。数千人のムスリム同胞団員が逮捕され、幹部は処刑された。
1970年のナセルの死去後、政権を握ったサダトは権力保持のためにムスリム同胞団に接近し、服役中のムスリム同胞団員を釈放し、イスラム法を国家宗教とする憲法改正を行った。
しかしサダトは、一部の富裕層寄りの経済政策を取り続け、エジプトの貧富の差はナセル時代より拡大するようになった。1977年、エジプト全土に広がった食糧暴動では、ムスリム同胞団が地下で指示していたと見られている。
サダトは1973年、第四次中東戦争で、イスラエルに占領されていたシナイ半島を一部奪回し、エジプト全土を熱狂の渦にほうり込んだが、1977年イスラエルを訪問し、1979年イスラエルとの平和条約に調印したことで、ムスリム同胞団などのイスラム原理主義グループは、反サダトの立場を急速に加速した。
1981年、ムスリム同胞団から分れた「アル・ジハード」のメンバーによりサダトは暗殺された。
1970年代からムスリム同胞団は、テロなどの武装活動と一線を引き、政治闘争に専念していると言われる。
サダトの暗殺により大統領に就任したムバラクは、80年代はムスリム同胞団の政治活動にある程度寛容な態度を取っていた。しかし90年代に入ると、弾圧的な姿勢に転換していった。
ムスリム同胞団は、1987年の総選挙で、他政党と「ムスリム連合」を形成し、エジプト国会で60議席を確保していたが、1990年の選挙では、ボイコットした。1995年11月の選挙では、1議席も確保できなかった。裁判所は与党の獲得した約100議席について無効判決を出したが、変更される様子はない。


ムスリム同胞団系の組織
エジプト
1.ジハード・グループ
名称:アル・ジハード、イスラミック・ジハード、ニュー・ジハード・グループ
組織の概要
1970年代後半から活動しているエジプトのイスラム教過激組織。 少なくとも二つの党派に分れているようだ。
元々のジハード・グループは現在服役中のアブドゥル・アル・ゾモルを指導者とし、新しい党派ニュー・ジハード・グループは現在国外に逃れているアユマン・アル・ザワヒリを指導者としている。
「イスラム集団」と同じく、ジハード・グループもまたシャイフ・ウマル・アブドラ・ラーマンをその精神的指導者としてしている。
全てのジハード・グループの目的はムバラク政権を打倒し、イスラム国家を建設することである。
活動
ジハード・グループはエジプト政府の高官に対する武装闘争に特化している。
アル・ジハードは、1981年のサダト大統領暗殺を行った。
ニュー・ジハード・グループは、1993年8月13日、カイロでの爆弾爆破により、内務大臣ハッサン・アル・アルフィを負傷させ、5人を死亡させた。
1993年11月23日、車の爆弾によりセドキ首相の暗殺を図った。首相は無傷だったが、少女1人が死亡18人が負傷した。
「イスラム集団」は主にそのターゲットを中位、下位の保安要員、キリスト教コプト派、西側の観光客としている。
それに対してジハード・グループは閣僚を含むエジプト政府の高官にターゲットを絞っているようだ。
勢力
不明だが、数千人の中核メンバーがいると思われる。そして数千人のシンパが各層にいる。
活動地域
主にカイロで活動している。またエジプト国外、アフガニスタン、パキスタン、スーダンにもメンバーがいると思われる。
対外的な援助
不明。エジプト政府は、イラン、スーダン、およびアフガニスタンのイスラム武装勢力が、ジハード・グループを支援していると主張している。
1.イスラム集団
名称:イスラム集団(アル・ガマー・アル・イスラミーヤ/ Al-Gama'a al-Islamiyya)
組織の概要
1970年代後半から活動しているエジプトのイスラム過激派。1人の容易に識別できる作戦指導者を持たないルーズな組織。 シャイフ・ウマル・アブドラ・ラーマンを精神的指導者としている。目標はムバラク政権を打倒し、イスラム国家を樹立することである。
活動
エジプト政府の保安要員、他の政府関係者、キリスト教コプト派教徒、西側の観光客、エジプトのイスラム過激派の対立派をターゲットとして武装攻撃をかけている。1992年に観光客襲撃を始めた。
1992年10月に国会議長を暗殺した。1992年にはエジプトを訪れた観光客に一連の攻撃をかけた。 1993年4月には、エジプト情報大臣の暗殺を試み、負傷させた。
観光客への襲撃は、1994年には幾分か沈静化した。それでも外国人観光客5人、エジプト人20人以上が殺害された。エジプトの観光産業は,1993年の観光地での相次ぐ襲撃により大打撃を受けたが、エジプト政府がその襲撃を幾つかくい止めることに成功したため、1994年には幾分回復し始めた。
1994年2月、イスラム集団はカイロの西側の外国銀行に爆弾をしかけた。2カ月で7つの銀行が爆破され、他の銀行では4つの爆弾がしかけられたが、事前に発見された。一連の爆弾はイスラム集団の反外国人襲撃の拡大を示していた。一方、上エジプト、ナイル川中流地域では、一連の列車襲撃があり、2月アシュートでは列車が襲撃され、観光客8人が負傷した。
1994年4月、エジプト、特にカイロ周辺では反テロ対策が進行し、イスラム集団の重要な幹部が警察により射殺された。これにより組織は混乱したように見えた。
そして警察は不穏であったアシュート地域の治安を安定させた。
しかし8月には、イスラム集団は上エジプトで観光客を襲撃した。スペイン人観光客1人が殺され、外国人に対し、国際人口会議の期間中、エジプトに入国しないようにとの警告が出された。国連主催の国際人口会議はその年9月に開催された。その会議期間中、カイロは平穏だった。多分非常に厳しい警備とイスラム集団の再組織化がまだ進んでない為だったと思われる。
イスラム集団は1994年に、外国人に警告を発し続けた。9月には紅海沿いのリゾート地ハルガダの市場での乱射事件で、ドイツ人旅行者1人、エジプト人2人が殺害されていた。
秋には、イスラム集団は攻撃の場所を上エジプト、エル・メニア、ケナ地域に移動したように見えた。10月には上エジプトでミニバスが襲撃され、イギリス人観光客1人が死んだ。イスラム集団はエジプト観光産業に打撃を与える能力をいまだ保持していることを誇示した。
組織の勢力
不明。多分、数千人の中核メンバーがおり、また数千人のシンパが各層にいると思われる。
組織の活動地域
主にエジプト南部のナイル川沿いのエル・メニア、アシュート、ケナを中心として活動している。またカイロ、アレキサンドリア、その他の都市にも支持者を持っている、高学歴失業者、学生の間に特に支持者が多い。
組織への援助
不明。エジプト政府はイラン、スーダン、そしてアフガニスタンのイスラム武装勢力が支援していると信じている。
エジプト以外のムスリム同胞団系列の組織
パレスチナ
ハマス
1987年のインティファーダの頃、ガザ地区、ヨルダン川西岸でムスリム同胞団の影響下にあった人々により設立された。
ヨルダン
ムスリム同胞団
1946年、エジプトのムスリム同胞団の支部として設立された。現在、下院にも議席を持っている。
シリア
ムスリム同胞団
1946年、エジプトのムスリム同胞団の影響を受け設立された。1982年、ハマで起こった暴動で政府軍により壊滅的打撃を受けた。この時の死者は1万人とも言われる。
その他、スーダン、パレスチナにも他の組織がある。
Last Updated: Apr.23 1996