国名 | イラン・イスラム共和国(Islamic Republic of Iran) |
面積 | 164.8万 平方 km(日本の約4.37倍) |
人口 | 7,692万3,300人(2010年推計) |
首都 | テヘラン |
言語 | ペルシャ語、トルコ語、クルド語他 |
宗教 | シーア派イスラム教 89%、 スンニー派イスラム教 10% |
通貨 | リアル(Iranian rials/Rls) 実際はToman(トマーン)という単位がよく使われていた。1Toman=10Rls |
為替レート | 1ドル=9,900リアル (2009年) |
日本との時差 | -5時間30分 |
ビザ |
※ビザやパスポートなどの情報は予告なく変更されることがあります。 必ず、イラン大使館、領事館などで確認してください。 |
国旗 | |
国際電話 | 国番号 98 |
- 位置:オマーン湾とペルシャ湾に面し、イラクとパキスタンに挟まれている。
- 国土の面積:
- 164.8万 平方 km、そのうち陸地は163.6万 平方 km。国境はアフガニスタン と936 km、アルメニア 35 kmとアゼルバイジャン北部は432 km、北西部は179 km、イラクと 1,458 km、パキスタンと909 km、トルコと499 km,トルクメニスタンと992 km接している。 またカスピ海に740km面している。
- 国際紛争:
- イランとイラクは、8年間にわたる戦争の後、1990年に外交関係を復活させた。しかしなお国境線や、戦争捕虜、航海の自由など8年にわたる戦争での未解決の問題についての交渉が続けられている。
- また、イランは、ペルシャ湾にある2つの島を占領し、アラブ首長国連邦(UAE)から非難されている。 ペルシャ湾入り口にあるアブ・ムーサ島は UAEと分割統治されていたが、1992年、イランはUAE管理地域への入国を一方的に禁止した。 アブムーサ島とトンブ島に関する争いはより激しくなった。イラン政府はその地域でのUAEに対する外交的態度を軟化させたが、1994年にはその島々に対して軍備を増強した。
- カスピ海上の領海線はいまだ確定していない。
- また、イランは、ペルシャ湾にある2つの島を占領し、アラブ首長国連邦(UAE)から非難されている。 ペルシャ湾入り口にあるアブ・ムーサ島は UAEと分割統治されていたが、1992年、イランはUAE管理地域への入国を一方的に禁止した。 アブムーサ島とトンブ島に関する争いはより激しくなった。イラン政府はその地域でのUAEに対する外交的態度を軟化させたが、1994年にはその島々に対して軍備を増強した。
- 気候: 大部分は乾燥し雨が少ない。カスピ海沿岸は地中海性気候。
テヘランの気温・降水量- 地形: 中央部のイラン高原は大部分砂漠であり、その北部と西部を山に縁取られている。カスピ海およびペルシャ湾の海岸沿いはとぎれとぎれに狭い平地になっている。
- 天然資源:石油、ガス、石炭、クロム、銅、鉄鉱石、鉛、マンガン、亜鉛、硫黄。
- 地形: 中央部のイラン高原は大部分砂漠であり、その北部と西部を山に縁取られている。カスピ海およびペルシャ湾の海岸沿いはとぎれとぎれに狭い平地になっている。
- 正式名称:イラン・イスラム共和国
- (英語Islamic Republic of Iran/ペルシャ語Jomhuri-ye Eslami-ye Iran)
- 政体:イスラム共和制
- 首都:テヘラン
- 行政区分:全国を24地区に分かれている。
- 独立:1979年4月1日(イラン・イスラム共和国を宣言)
- 憲法:1979年11月2〜3日:1989年、大統領の権限を拡大し、首相の権限を制限する修正がなされた。
- 司法制度憲法はイスラムの統治原則を法典に編んでいる。
- 投票権:15才以上の国民
- 行政府:
- 首都:テヘラン
- 最高指導者 (rahbar) :イスラム革命指導者 セイエド・アリー・ハメネイ師(1989年6月3日就任)
- 政府の長: 大統領 マフムード・アフマディネジャード(2005年8月就任)
- 立法府:一院制
- イスラム諮問議会(マジュレス/Majles-e-Shura-ye-Eslami):総議席290。
- 専門家会議(護憲評議会):
- 最高指導者の監督、罷免、選出を行う。定数86名、任期8年
- 監督者評議会(護憲評議会):
- 監督者評議会はきわめて強い権力を有し、イスラーム法学者6名および一般法学者6名の12名から構成されている。
- 憲法の解釈
- 大統領選挙・イスラム諮問議会・専門家会議選挙の選挙の監督・立候補者の審査・認証
- イスラーム諮問議会が可決した法案が、シャリーアと憲法に反していないか審査しその結果承認するか、拒否する。すなわち議会通過法案を差し止めるか否かを決定する
- 国旗:
- 上から緑、白、赤の三色に水平に3分割されている。赤の国章(アラーと言う言葉を伝統的に象徴する)白地の真ん中にある。緑地の下部と赤字の上部におのおの11回、白のアラビア文字でアラーアクバル(神は偉大なり)と書かれている。
- 軍事費:イランの公式データによると、イランは、1992年に1兆7,850億リアル (外貨8億800万ドルを含む)、1993年には2兆5,070億リアル (外貨8億5000万ドルを含む)の軍事費を使っている。1997年には8兆2839億リアル。 (外貨については概算)
■軍事
- 概況
- イランの経済は、中央の計画、国営の石油及び他の大企業、村の農業、そして零細な私営の商業やサービス業の混合である。過去の数年間、政府は経済の自由化と政府の関与を減らすためのいくつかの措置を導入した。しかし、これらの変化の大部分は、政治的な反対のために、ゆっくりとしか進んでいない。
1989年に始まった輸入増加と全般的な財政運営の誤りにより、イランの財政は1992年中頃から次第に厳しさを増してきた。1993年終わりに、イラン政府は、約300億ドルの対外債務があると見積もった。この債務のうち、未払いの残務は、80億ドルであった。1994年、イランは債務120億ドルの支払繰り延べをした。イランの輸出収入の90%を占める石油輸出の収入は、石油価格の低下により例年よりも少なかった。
1997年に新しく就任したハタミ大統領は、ラフサンジャニ前大統領が進めていた市場改革プランを引き続き、押し進めている。イランの石油一辺倒の経済を多様化させる事を表明している。1990年代初め、イランは金融危機に陥り、150億ドルの債務の繰り延べに追い込まれた。
1996年、石油市場は好調でイランへの金融圧力をゆるめ、債務の支払を容易にした。
1997年から1998年初頭にかけて石油価格の下落により、イランの金融状況は厳しい。もしこれ以上石油価格が下落すれば、イランは輸入を制限し、負債の支払を遅らせざるをえないだろう。 - GDP(MER): 3,304億6,100万ドル (2009年:IMF)
- 一人当たりGDP(MER):4,459.679ドル (2009年:IMF)
- GDP(PPP): 8,278億5,800万ドル (2009年:IMF)
- 一人当たりGDP(PPP):11,172.218ドル (2009年:IMF)
- 国内総生産実質成長率:1.823% (2009年:IMF)
- インフレ率(消費者物価):8.000% (2009年:IMF)
- 失業率:11.8% (2009年推計)
- 国家予算(2009年推計)
- インフレ率(消費者物価):8.000% (2009年:IMF)
- 歳入:936.1億ドル
- 歳出:930.4億ドル
- 輸出:690.4億ドル (2009年推計)
- 商品: 石油 80%、化学・石油化学製品、果物、ナッツ、絨毯
- 相手国: 中国、日本、インド、韓国、トルコ
- 輸入:589.7億ドル(2009年推計)
- 商品: 機械、軍事補給、金属細工物、食料、製薬、技術サービス、石油精製製品
- 相手国:UAE 、中国、ドイツ、韓国、イタリア、ロシア、インド
- 対外債務:126.3億ドル (2009年12月)
- 工業生産: 成長率 4% (2009年推計)
- 産業:石油、石油化学、織物、セメントおよび他の建設材、加工食品(特に精製糖、植物性油製品)、鉄鋼、兵器
- 農業:GDPの10.7%
- 工業生産: 成長率 4% (2009年推計)
- 主な産物ー小麦、米、他の穀物、テンサイ、サトウキビ、果物、ナッツ、綿、乳製品、羊毛、キャビア
- 通貨::リアル(Iranian rials)
- 10 Iranian rials (IR) = 1 toman
- 為替レート
- 1ドル=リアル (IR) :9,900 (2009年)
-
交通・運輸
- 鉄道
- 全体: 7,286 km
- 主要道路
- 全体:162,000 km
- 舗装: 81,000 km
- 未舗装: 砂利、砕石 81,000 km
- 舗装: 81,000 km
-
■通信
- 電話: 302万回線
- ラジオ局::AM 77、FM 3、 短波 0
- テレビ局: 28
- テレビ台数: 390万台
- 電話: 302万回線
- 1736年、サファビー朝が滅亡した。
その後イランは半世紀にわたり、混乱を極めた。
遊牧民であるトルコ系カジャール族は族長アーガー・モハンマドに率いられ、イラン各地の部族を次々と征服ていった。そして1796年、テヘランを首都とし、統一国家を樹立した。これをカジャール朝という。
カジャール朝の支配は、封建的な支配であり、中央集権的な強大な支配力を持たなかった。
第一次世界大戦に際し、カジャール朝は中立を宣言したが、オスマン帝国に敵対する帝制ロシア、イギリスは、イランに軍隊を送り、オスマン帝国に対する軍事作戦を行った。両国軍隊の駐留により、イランは事実上両国の支配下におかれた。
ロシアで起きた革命は、イランにも大きな影響を与えた。1920年、21年には地方都市に3つの革命政権が樹立された。
カジャール朝にはその革命政権を鎮圧する力はなかった。イギリスは、革命ロシアの勢力がイランに伸びるのを恐れ、陸軍将校であったレザー・ハーン・パーレビを背後で支援した。 1926年、レザー・ハーン・パーレビはイギリスのバックアップにより、軍事クーデターを起こし、カジャール朝を倒し、パーレビ朝を作った。
1935年、国名をイランとした。
第二次世界大戦ではイランは公式には中立であった。
しかしレザー・シャーは南アフリカへ亡命せざるを得なかった。あまりに枢軸国に対して友好的すぎると考えられたからだ。
当時22歳だったムハマンド・レザーが彼の跡を継いだ。
ムハマンド・レザーの下でイランは急速に近代化した。識字率は飛躍的に増加し、女性は解放された。土地は再分配され、保健衛生は改善され、工業化が進んだ。しかし彼の政権は抑圧的だった。
1974年の石油危機により、イランは莫大な石油収入を得た。それがシャー(ペルシャの王の称号)の破滅の始まりだった。石油収入は、不適切な開発計画に使われ、逆にインフラ建設は滞った。大多数の人間は亢進するインフレにより以前よりも貧しくなった。シャー一族や政府高官は巨額な富を得、収賄がはびこった。アメリカは、大量の武器をイランに売りつけた。シャーの著しい対米依存は、イラン国民にシャーへの反感とともに、アメリカへの反感をつのらせた。
パーレビ朝の最初から、くすぶっていた反対は時には暴力となった。
学生は性急な改革を望み、頑固なイスラム教徒は改革を元に戻すことを望んだ。すべてがパーレビの贅沢を攻撃した。
経済は、オイルブーム以後の国王の政策の失敗により、ますます悪化した。
反対はますます大きくなりサボタージュや街頭での大規模なデモが起こった。
国王は徹底的に反対派を弾圧した。
ホメイニが最初に一般の注目を集めたのは、1962年だった。聖職者の財産権を減らし、女性の解放を進めるというシャーの計画に反対したときだった。アヤトラ・ホメイニは国王に対する反対派の指導者として次第に認められるようになった。
1963年、シャーの土地改革政策、アメリカ、イスラエルよりの外交政策に反対する大規模な反政府デモが起こり、約3000人が殺され、その指導者と見られたホメイニは数カ月拘禁された。
1964年、彼は国外追放されトルコへ行った。
しかしイラクへ追いやられ、ここで14年間亡命生活を送った。
イラクのフセイン大統領は、イランのシャーの要請によりホメイニを国外追放にし、1978年、ホメイニはフランスへ向かった。
1970年代後半には、シャーの王朝を救おうという試みはますます絶望的になり、アメリカは援助をためらいだした。
1978年、反政府暴動は全土に広がった。
1978年11月、シャーは戒厳令を出し、テヘランでは何百人ものデモ隊の人々が殺された。
シャーはついに1979年1月16日、国外へ脱出した。亡命中、シャーは国から国へ移り、1980年エジプトで亡くなった。
アヤトラ・ホメイニは2月1日、何百万人もの崇拝者たちに迎えられイランへ帰国した。
同月、革命評議会が設置された。4月、国名をイラン・イスラム共和国と改めた。
ホメイニは、アメリカを大サタン、ソ連を小サタンと呼び、「西でも東でもない、イスラム共和国」というスローガンのもと、どの勢力にも与しないことを明らかにした。そしてイスラム革命の輸出を宣言した。
1979年11月4日、テヘランのアメリカ大使館がホメイニ支持のイスラム学生たちに占拠された。学生達は、大使館員52名を人質にとった。大使館員達は444日の間、監禁された。
イラクとの関係は、イスラム革命の当初は良好だった。しかし1980年、イラク国内で政府高官に対するテロ計画が相次ぎ、急速にその関係は悪化した。
1980年9月22日、イラクはイランの主要軍事施設を爆撃した。本格的なイランーイラク戦争が始まった。8年間の戦争の後、1988年に停戦が実現した。
1989年6月4日、ホメイニ師死去。アヤトラ・アリ・ハメネイがイランの最高指導者として指名された。1989年8月、ラフサンジャニが大統領に選ばれた。ラフサンジャニは政治的には穏健派と言われている。
1997年5月、大統領選挙が行われ「改革派(旧左派)」のハタミ師が「保守派」候補を下し圧勝。同年8月に穏健でリベラルなハタミ政権が発足し、市民社会形成を目指す諸改革を推進。
2000年2月、国会選挙で改革派が圧勝。同年5月、改革派が過半数を占める第6期国会が発足。
2001年6月、大統領選挙でハタミ大統領が前回を上回る得票率で再選。同年8月、第2次ハタミ政権発足。
2003年2月、地方評議会選挙で、全国主要都市で保守派が圧勝。
2004年2月、国会選挙では、多数の改革派候補者の立候補が認められない中、保守派が圧勝。
2005年6月、大統領選挙が行われ、ラフサンジャニ公益評議会議長との決選投票の末、アフマディネジャード・テヘラン市長が当選。同年8月、アフマディネジャード・テヘラン市長が当選。同年8月、アフマディネジャード政権発足。
- 人口 :7,692万3,300人(2010年推計)
- 人口構成(2010年推計)
年齢 構成比 女性 男性 0-14 歳 21.7% 7,022,076人 7,394,841人 15-64歳 72.9% 23,914,172人 24,501,544人 65 歳以上 5.4% 1,870,823人 1,725,82人 - 人口成長率: 1.253% (2010年推計)
- 出生率:人口1,000人当たり18.52人 (2010年推計)
- 死亡率: 人口1,000人当たり5.94人 (2010年推計)
- 乳児の死亡率:出生1,000人当たり43.45人(2010年推計)
- 平均寿命: (2010年推計)
男性 女性 68.32歳 71.29歳 - 民族構成
- 人口構成(2010年推計)
- ペルシャ人 51%、 アゼルバイジャン人 24%、 Gilaki and Mazandarani 8%、クルド人 7%, アラブ人 3%, Lur 2%, Baloch 2%、 トルクメン人2%、 その他 1%
- 宗教
- シーア派イスラム教 89%、 スンニー派イスラム教 10%、ゾロアスター教、ユダヤ教、キリスト教, Baha'i 1%
- 言語
- ペルシャ語及びペルシャ語系の方言 58%、 トルコ語及びトルコ語系方言 26%、 クルド語 9%、 Luri 2%, Baloch 1%、 アラビア語 1%、 トルコ語 1%、 その他 2%
- 識字率(15歳以上で読み書きできる) (2002年推計)
全人口平均 男性 女性 77%% 83.5% 70.4% - 労働力: 2,502万人
- 職業: 農業 25%、 製造業 31% 、サービス業45% (2007年)
- 労働力: 2,502万人