サウジアラビア

サウジアラビア

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基本情報

国名 サウジアラビア王国  Al-Mamlaka al-Arabiya as-Saudiya (The Kingdom of Saudi Arabia)
面積 214万9,690 平方km(日本の5.8倍)
人口 2,573万1,776万人 (国民以外の居住者557万6,076人を含む)(2010年推計)
首都 リヤド
言語 アラビア語(公用語)
宗教 イスラム教
通貨 サウジ・リアル 1 Saudi riyal (SR) = 100 halalah
為替レート 1ドル= 3.75SR(2006年)
日本との時差 -6時間
ビザ
ビザ
入国にはビザが必要です。
ビザには、ビジネス、観光、トランジット、居住、家族、巡礼、会議出席に分かれています。
また、出国のための航空券が必要です。
女性が単身で入国する場合は、身元保証のできる人間が空港まで迎えに行かなければ入国できません。
パスポート
6ケ月以上残存有効期間のあるもの

※ビザやパスポートなどの情報は予告なく変更されることがあります。
必ず、大使館、領事館などで確認してください。
国旗  
国際電話  

 
   
   
   

地勢・気候

地図
位置
サウジアラビアはペルシャ湾と紅海、イエメン北部に面している。
面積:国の面積は、196万582 平方km、そのうち陸地は196万582 平方km。
国際紛争
イエメンとの国境線の大きな区域はまだ確定していない。
アラブ首長国連邦(UAE)との国境線は確定していない。
Qaruh および Umm al Maradim 島におけるクウェートの領有権に対してサウジアラビアは疑義を唱えている。
気候:非常に極端な気温の厳しく乾燥した砂漠。
リヤドの気温・降水量
地形:大部分は 無人の砂漠。
天然資源:石油、天然ガス、鉄鉱石、金、銅、
:ペルシャ湾と紅海に広く伸びている海岸線により、サウジアラビアはペルシャ湾とスエズ運河を航行する船舶(特に原油)に大きな影響力を与えている。

政治

正式名称:サウジアラビア王国
(英語:Kingdom of Saudi Arabia/アラビア語Al Mamlakah al Arabiyah as Suudiyah)
首都:リヤド
独立:1932年9月23日(統一)
国の祝日: 王国の統一、 9月23日 (1932年)
憲法:ない。イスラムの法であるシャリーアによって統治される。
法律制度:イスラム法と幾つかの導入された非宗教の規定に基づく。商業上の争いは特別委員会によって裁定される。
選挙権:なし
行政府: 元首
アブドッラー・ビン・アブドルアジーズ・アール・サウード国王(Abdullah bin Abdulaziz Al Saud)(2005年8月即位、第6代国王)
行政府: 政府の長
国王が兼任
内閣:大臣は、 国王によって指名される。重要ポストは王族によって占められている。
立法府:国王により指名された90名のメンバーと議長からなる諮問評議会。任期は4年間。
司法府:最高司法評議会
政党とその指導者:許可されていない。
国旗
緑地に、白い水平な軍刀の上に白字で大きくアラビア文字(唯一の神のみ存在する:マホメットは神の使いである、と言うような意味)白い水平な軍刀の上に (巻き上げ側に先端が向いている)、 緑は、イスラムの伝統色

■軍事

軍事費: 181億ドル、 GDPの12% (1997年推計)

経済

概況
裕福な石油をベースにして、経済活動の多くを政府がコントロールしている。
GDPの約35%は民営企業による。
政治とともに経済もアメリカとの結び付きが特に強い。
石油産業は、国家歳入のざっと75%、GDPの35% 、そして輸出収入の90%を占めている。
サウジアラビアは、世界最大の石油埋蔵量(確認されている全石油埋蔵量の26%)を持ち、 最大の石油輸出国である。そしてOPECでは指導的役割を果たしている。
サウジアラビア政府は、1983年以来赤字に陥っていた財政を、 1990年代には均衡に戻すように努力しており、また私的な経済活動を奨励している。
ざっと400万人の外国人労働者が、サウジアラビアの経済、例えば、石油やサービス業などで重要な役割を果たしている。
1997年には、OPECの生産割り当て以上の生産により、サウジアラビアは財政赤字を減少させ、16億ドルの財政赤字および2億ドルの当座勘定剰余金となった。
1998年には穏健な財政改革を維持し、公的支出を抑制し、非石油製品の輸出を促進する政策を取った。
水不足と急激な人口増加に対応するために、農業生産の自給率を高めようとしている。
GDP(MER): 3,696億7,100万ドル (2009年:IMF)
一人当たりGDP(MER):14,486.083ドル (2009年:IMF)
GDP(PPP): 5,925億8,600万ドル (2009年:IMF)
一人当たりGDP(PPP):23,221.356ドル (2009年:IMF)
国内総生産実質成長率:0.146% (2009年:IMF)
インフレ率(消費者物価):4.246% (2009年:IMF)
失業率:10.5% (2009年推計)
国家予算 (2009年推計)
歳入: 1,359億ドル
歳出: 1,590億ドル
輸出:1,923 億ドル (2009年推計)
商品:石油及び石油製品 90%
相手国: 日本15.33%、韓国12.71%、アメリカ12.2%、中国10.38%、インド 7.12%、台湾 4.54%、シンガポール 4.25% (2009)
輸入: 871億ドル (2009年推計)
商品:機械および装置、食品、化学、自動車、織物
相手国:アメリカ12.32%、中国12.06%、ドイツ7.67%、日本 6.15%、韓国 5.32%、インド4.99%、イギリス4.72%、フランス4.05% (2009)
対外債務: 727.7億ドル(2009年推計)
工業生産: 成長率 -2.8% (2009年推計)
発電量: 1,791億 kWh (2007年)
工業:原油生産、石油精製、石油化学、アンモニア、産業ガス、水酸化ナトリウム(苛性ソーダ)、セメント、肥料、プラスチック、金属、商業船修理、民間航空機の修理、建設
農業:GDPの2.9%、 労働力の6.7% を占める。 小麦、大麦、トマト、メロン、日付、柑橘類、羊、鶏、卵、牛乳
通貨:サウジ・リアル
1 Saudi riyal (SR) = 100 halalah
為替レート:1ドル= 3.75 サウジ・リアル(2009年)
交通・運輸
鉄道 総距離:1,390 km
主要道路
全長:162,000 km
舗装:69,174 km
未舗装: 92,826 km (1996年推計)
通信
電話: 1,46万台 (1993年推計)
ラジオ局:AM 43、 FM 13、 短波 0
ラジオ台数: 500万台 (1993年推計)
テレビ局: 80
テレビ台数: 450万台 (1993年推計)

歴史

18世紀
18世紀初頭、サウド一族は、リヤドの近くにある小さなオアシスの村ディリヤの支配者だった。
当時、アラビア半島はトルコ人のオスマン帝国に支配されていたが、アラブ世界では、オスマン帝国に対する反発が強まっていた。その中で、ムハンマド・ブン・アブド・ワッハーブによる、イスラム復古主義運動が起こった。それはコーランとスンナを堅く守り、教えからの逸脱を許さないというものだった。その結果、彼は迫害され、サウド家のムハンマド・ブン・サウドが統治するディリヤに保護された。そして二人の間に同盟関係が生まれ、これがサウジアラビアの基礎となった。ムハンマド・ブン・サウドは軍事・政治を、ムハンマド・ブン・アブド・ワッハーブは宗教面を担当した。
19世紀
1800年代初期には、サウド一族はアラビア半島の大部分を支配していた。これはオスマン・トルコに警鐘を鳴らし、アラビア半島に軍隊を送った。オスマン帝国はディリヤを占領し、サウド家の最初の統治は1818年に終わった。
1824年には、サウド一族は中央アラビアの政治権力を奪還した。ディリヤの近くの新しい首都リヤドから再びその地域を支配した。1865年に長い部族戦争が始まった。1891年、オスマン帝国に支援されたラシード家が勝利し、サウド家は亡命へ追いやられた。彼らは現在のクウェート近郊に亡命した。
20世紀
1901年、アブドゥル・アジズ・ブン・アブドゥル・ラーマン・アル・サウドは、21歳の時、クウェートから領土回復を期して帰還した。彼は、1902年ラシード家からリヤドを奪回した。
彼らは、湾岸地域に移動した。そして1912〜13年、アル・ハサ・オアシスからオスマン帝国の守備隊を追い払った。しかしそこから西にはむかえなかった。湾岸の部族はイギリスの保護下にあったからだ。イギリスの警告を受け、アブドゥル・アジズは現在のサウジアラビアの西部地域へ方向転換した。西部地域にはヘジャズ王国があった。ジェッダは1925年に包囲された。翌月、アブドゥル・アジズはヘジャズ王の称号を公式に譲られた。
サウジアラビア建国
1932年9月23日、二つの王国は統一され、イスラム国家としてサウジアラビア王国と名づけられた。国語としてアラビア語、憲法としてコーランが選定された。
1938年、石油がサウジアラビアで発見された。しかし第二次世界大戦により生産を中止せざるを得なかった。しかし戦争後1950年までには、サウジアラビアのロイヤリティは毎週約100万ドルに達していた。1960年までには、サウジ政府の収入の81%が石油から来ていた。
アブドゥル・アジズは1953年に亡くなった。
彼の息子サウドが王位を継承した。サウドは、濫費を始めた。そしてやりすぎるようになった。
1958年3月、一族は彼に王位以外の権力を、その時外務大臣だった彼の弟ファイサル皇太子に譲らせた。ファイサルはただちに国家行政を近代化し、王国の財政に秩序を取り戻そうとした。しかし表看板としてのサウドの考えは彼とサウジ王家が持っていた概念と一致しなかった。
1960年12月、サウドは権力を取り戻し、ファイサルは首相を辞任した。サウドは健康を害していたが、以前の使い放題のやり方に戻った。1964年11月3日、長い争いの後、一族はファイサルに味方しサウドを退位させた。
国王としてのファイサルの最初の行動はサウジアラビア内の奴隷制度の最終的な廃止であった。 11年に渡る彼の在位は、王国が近代国家へと移行する長い道のりであった。
60年代に蓄積された富は、サウジアラビアの政治的影響力を増大させた。1967年中東戦争の間、サウジアラビアは他のアラブ産油国とともにアメリカ、イギリスに対して石油の輸出をストップさせた。そして1973〜74年には石油輸出禁止の中心となった。石油輸出禁止に続いて、石油価格は4倍にもなった。ファイサルはOPECの石油生産量の30%と非共産圏の石油埋蔵量の35%をコントロールしていた。サウジアラビアは世界の一勢力としての政治的地位を確立した。
1973年から78年の間の石油収入は、年間43億5000万ドルから360億ドルへ急増した。
1975年、ファイサル国王は甥のファイサル・ブン・ムサイドによって殺害された。
ファイサルの異母弟ハリド皇太子が王位を継いだ。70年代後半、膨大な石油収入による開発計画が推進された。それにより多数の外国人がサウジアラビアに入ってきた。開発計画による利権はまた王族の腐敗、汚職を生み出し、一部部族や低中産階級の不満を表面化させ始めた。 1979年11月20日、メッカのグランド・モスクが急進派によって占拠された。国王は10日後、鎮圧部隊を突入させ、モスクを鎮圧した。この事件により250人以上が亡くなり、逮捕された63名は6週間後、処刑された。
ハリド国王は、1982年6月亡くなった。彼の異母弟でアブドル・アジズの4男であるファハドが国王となった。ハリドの健康がすぐれない為、ファハドは長らく皇太子として国政を指揮していた。
1979年のイラン・イスラム革命より、イランとの関係は緊張していた。1987年、イランからの巡礼者たちはメッカでデモンストレーションを行い、詳細は諸説あるが、官憲との衝突で少なくとも400人が亡くなった。大部分がイラン人だった。その後数年、イランはメッカへの巡礼をボイコットした。
1990年イラクのクウェート侵攻は、サウジアラビアにイラクの次のターゲットではないかとの危機感を高まらせた。サウジアラビアはアメリカに軍の派遣を要請し、最大時で50万人以上の軍が駐留した。
1995年秋、ファハド国王は病で倒れ、1996年1月1日より、アブドラ皇太子が政務を取ることとなった。
1996年2月21日、ファハド国王は健康が回復し、政務に戻ると発表した。

人々

人口:2,573万1,776万人(2010年推計)
注:国民以外の居住者557万6,076人を含むを含む
人口構成(2010年推計)
年齢 構成比 女性 男性
0-14 歳 38% 5,340,614人 5,557,453人
15-64 歳 59.5% 7,473,543人 9,608,032人
65 歳以上 2.5% 343,750人 363,241人
人口増加率: 1.548% (2010年推計)
出生率: 人口1,000人あたり19.43人(2010年推計)
死亡率: 人口1,000人あたり3.34人 (2010年推計)
乳幼児の死亡率: 出生1,000人あたり16.73人(2010年推計)
平均寿命 (2010年推計)
男性 女性
71.93歳 75.9歳
民族構成:アラブ人 90%、アフリカ系アジア人 10%
宗教:イスラム教100%
言語:アラビア語
識字率(15歳以上) (2003年推計)
全人口平均 男性 女性
78.8% 84.7% 70.8%
労働力: 719.3万人 (2009年推計)
職業: (2005年推計)
製造業 サービス業 農業
21.4% 71.9% 6.7%

地図

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