アフガニスタン

アフガニスタン

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基本情報

国名 アフガニスタン・イスラム共和国(Islamic Republic of Afghanistan)
面積 647,500平方km(日本の約1.73倍)
人口 2,912万1,286人(2010年推計)
首都 カブール
言語 パシュトゥー語、アフガンペルシャ語(ダリー語)
宗教 スンニー派イスラム教徒84%、シーア派イスラム教徒 15%
通貨 単位はアフガニー(afghani) 。 1 afghani (AF) = 100 puls
為替レート 1ドル=50.25アフガニー(2008年)
日本との時差
ビザ 観光、ビジネス、復興支援などでアフガニスタンへ入国するためにはビザが必要です。
■必要な書類
1. 在日アフガニスタン大使館所定の査証申請書 1枚 (アフガニスタン大使館ホームページからダウンロードできます)
2. 写真(パスポートサイズ) 2枚 (1枚は査証申請書に貼付)
3. 旅券(有効期限6ヶ月以上)
4. 会社推薦状(在職証明、渡航目的・目的地・日数・法令遵守の旨等を記入)
※個人旅行で推薦状が取れない場合、上記4の内容を明記した査証発給依頼の手紙と英文の在職証明書、 または在学証明書を提出。
※公用の場合は、口上書が必要
※代理申請の場合は依頼者の署名が入った委任状(旅券と同じ署名 )
※取材での渡航の場合、査証部までお問い合わせが必要。
5.査証料金銀行振り込み控え(コピーでも可)
詳しくは、在京アフガニスタン大使館まで。
国旗
国際電話  
入国ルート  
   
   
   

地勢・気候

地図
面積:アフガニスタンの面積は 647,500 平方km。
国境線:イランと 936 km , 中国と76 km, パキスタンと2,430 km , タジキスタンと 1,206km 、トルクメニスタンと744 km、ウズベキスタンと 137 km、国境を接している。 気候は、乾燥し、雨が少ない。夏は暑く冬は寒い。大部分は険しい山。北部と南西部が平地。
気候: 乾燥し、雨が少ない。夏は暑く冬は寒い。
カブールの気温と降水量


地形:大部分は険しい山々:北部と南西部は平地
天然資源: 天然ガス、石油、石炭、銅、滑石、重昌石、硫黄、鉛、亜鉛、鉄鉱石、塩、

政治

正式名称:アフガニスタン・イスラム共和国((Islamic Republic of Afghanistan))
首都:カブール
独立: 1919年8月19日、イギリスより独立。
憲法はない。
法律制度:新しい法律制度は採用されていないが、臨時政府は、イスラム法(Shari'a)に従うと宣言している。
投票権: 確定していない。 以前は15〜50歳の男性すべてだった。
行政府
元首:ハーミド・カルザイ大統領
政府の長:首相なし
立法府
上院(定数、102議席、県議会(任期4年)及び郡議会(任期3年。2010年初の選挙を実施予定)から選出される各34名と大統領が指名する34名(任期5年)により構成)
下院(任期5年、定数249議席)
勢力およびその指導者
アフガニスタンは、ラバニ派、ドスタム派、タリバーンの3勢力が全土を分割して、激しい戦闘を行っている。これは、種族間の対立という側面を持ち、状況を複雑化している。
ラバニ派
タジク人主体の勢力。
ドスタム派
北部に強固な勢力を持つウズベク族の組織。ドスタム将軍を指導者とする。アフガニスタン北部の自治権獲得を目指している。
タリバーン(Talibaan)
パキスタンに建設されたアフガニスタン難民の学校の学生達により結成された。この組織は、厳格なイスラム国家建設を目的としている。1994年冬から活動を開始し、アフガニスタン南部に勢力を拡大し、1996年カブールを制圧した。

経済

概況
アフガニスタンは、険しい山々に囲まれており、非常に貧しい。産業は農業(主に小麦)と家畜の飼育(羊とヤギ)に大きく依存している。
1989年2月15日に撤退するまで旧ソビエトにより10年近くも軍事占領された。 その後の勢力争いも含む18年以上戦争が続いており、その政治的軍事的動乱の下で、経済的な安定・発展は求めるべくもなかった。
過去の10年間を通じて、人口の三分の一が国外に脱出した。ピーク時にはパキスタン、イランでは、600万人以上の難民を保護した。 しかし現在では約75万人のアフガニスタン難民がパキスタンにおり、約120万人がイランにいる。 また100万人がたぶんアフガニスタンの都市部またはその周辺に移動したと思われる。
この18年間の国内総生産は、労働者不足と資本の欠如および貿易と運輸の混乱のために大幅に落ち込んだ。 何百万という人々が食料、衣服、住居の不足、医薬品の不足にあえいでいる。インフレは全国的に大きな問題となっており、1996年にはカブールで240%に昇った。
しかし数値データは極端に少ない。
GDP(MER): 140億4,400万ドル (2009年:IMF)
一人当たりGDP(MER):486.111ドル (2009年:IMF)
GDP(PPP): 270億1,400万ドル (2009年:IMF)
一人当たりGDP(PPP):935.049ドル (2009年:IMF)
国内総生産実質成長率:22.545% (2009年:IMF)
インフレ率(消費者物価):-2.175% (2009年:IMF)
国家予算(2009年推計)
歳入:10億ドル
歳出:33億ドル
輸出:5億4700万ドル (2009年推計)
商品:果物、ナッツ、手織りカーペット、羊毛、綿、毛皮、貴金属および半貴石
相手国:アメリカ26.47%、インド23.09%、パキスタン17.36%、タジキスタン12.51% (2009年)
輸入:53億ドル (2008年推計)
商品:機械および他の資本財、食品、繊維、石油製品
相手国:パキスタン 26.78%、アメリカ 24.81%、インド5.15%、 ドイツ5.06%、 ロシア4.04% (2009年)
対外債務:27億ドル(2008年推計)
工業生産:成長率 不明 、GDPの26%(2008年推計)
発電量:2億8,550万 kWh(2009年推計)
産業:織物の小規模生産、石鹸、家具、靴、肥料、アパレル、食品製品、ノンアルコール飲料、ミネラルウォーター、セメント、手織りのカーペット、天然ガス、石炭、銅
農業:小麦、果物、ナッツ、羊毛、羊肉、シープスキン、ラムスキン
通貨:アフガニー(afghani)
1 afghani (AF) = 100 puls
為替レート1ドル=アフガニー : 50.25 (2008年)
交通・運輸
鉄道:24.6 km
主要道路
全距離:21,000 km
舗装: 2,800 km
未舗装:18,200 km (1984年)

通信
電話: 31,200台(1983年)
ラジオ局: AM 5、 FM 0、短波 2
ラジオ台数: 60万
テレビ
テレビ台数10万(1993年)

歴史

(工事中)

9〜11世紀
9世紀初頭、アッバース朝の宗主権のもとで、アム川の南にイラン系のサーマーン朝が興った。サーマーン朝は、9世紀後半、アッバース朝から独立し、支配を拡大していった。10世紀には、アム川以北の草原地帯からアフガニスタン、南はイラン北部までを支配下に置いた。
962年、アフガニスタンの南部ガズニ地方で、トルコ系のガズニ朝が建国され、サーマーン朝から独立した。
これはサーマーン朝のトルコ系奴隷出身の総督アルプ・ティギンによって建設された国家だった。
ゴール朝が、1048年アフガニスタンのゴールに建国された。
シル川下流のホラズム地方におこったトルコ系のイスラム王朝ホラズム・シャー朝は、中央アジア・西アジアに勢力を拡大し、1215年ゴール朝を滅ぼし、アフガニスタンを勢力下に置いた。
1221年から1223年、モンゴルのチンギス・ハーンの大軍勢によるホラズム・シャーに対しての遠征が行われた。そしてモンゴルは、アフガニスタンに侵攻し、バルフ、バーミヤン、ヘラート、ガズニなどの都市を破壊し尽くした。彼らはカレーズ(地下水路)をも破壊したため、多くの町が滅亡し、現在でも再建されていない町が多い。
モンゴル帝国の支配が、その後続いた。
1306年、チンギス・ハーンの次男チャガタイの一族によって、チャガタイ・ハーン国が建国された。
カブール・バーミアンを含むアフガニスタン東部は、チャガタイ・ハーン国、バルフ・ヘラートなどの西部はイル・ハーン国の領土となった。チャガタイ・ハーン国は、1340年代に東西に分裂した。
1370年、モンゴルの貴族の末裔と言われるティムールが、パミール以西の草原地帯の支配権を樹立した。ティムール帝国は領土を拡大し、アフガニスタンの地も支配下に入った。その後100年以上、アフガニスタンはティムール帝国の領土であった。
ティムールは1405年亡くなった。その死後、ティムール帝国は内紛が続き、地方の勢力は次々と独立していった。
ティームールの子孫であるバーブルは、ティムール帝国再興を図ったが、短期間でカブールを追われ、インドへ移動した。そして、1526年、インドのデリーを支配していた王朝を破り、デリーを首都としてムガール帝国を建設した。ムガール帝国は最盛期、カブール、カンダハル、ゴールなどアフガニスタンの大半を支配下に置いた。
18世紀
17世紀後半からムガール帝国は次第に衰退していった。各地でムガール帝国に対する反乱が相次いでいた。そしてヨーロッパから、イギリス、フランスなどがインドに圧力を強めていた。
1774年に、アフガニスタン王国が建国された。
19世紀
19世紀に入ると、イギリスはインドの植民地化を大きく進めていった。
「植民地インド」に対する不安定要素としてアフガニスタンなどの隣国の影響を恐れていた。加えて植民地インドにとって、アフガニスタンはロシアに対する緩衝国としての重要な国家だった。イギリスは、アフガニスタンへのロシアの影響力を常に監視していた。アフガン王国はあまりに弱く自立できなかった。そして外部からの援助を求めた。イギリスは良い返事をしなかったが、同様な申し入れがロシアにもなされた。
イギリスはロシアの影響力を排除するために、アフガニスタンを支配下に置くために軍隊を送った。
第一次アフガン戦争は、1839年から1842年の間行われた。1939年イギリスはカブールを占領した。
しかし1841年、地元民が蜂起し、カブールのイギリス守備隊4500名はインドへ退却しようとした。そしてカイバル峠でほとんど全滅してしまった。わずか1人が生き残っただけだった。約800万ポンドの戦費を使い、イギリスは一片の領土を得ることなく終わった。
第二次アフガン戦争は、1878年から1880年に起こった。この時の戦いでアフガニスタンは、イギリス軍を破っている。第二次世界大戦以前に、イギリスがアジアで正規戦に敗れたのはこの1回だけだった。
アフガニスタンはイギリス保護国となる事に同意した。カブールにイギリス外交官を駐在させる事に同意した。この外交使節団は、カブールに着くや否や全員殺された。
20世紀
1919年5月27日、第三次戦争が起こり、ついにイギリスは撤退し、アフガニスタンは独立した。そして1970年代まで、王制を保っていた。そして1973年、王制は終わりを告げた。 1979年12月、ソビエトは軍事介入した。1979年、ソ連をバックにした共産主義革命が起こった。ソ連に支えられた共産主義政府が樹立された。アフガニスタンのイスラム教徒たちは、山岳地帯でゲリラ闘争を始めた。
イギリスに代わりロシアの影響を心配したのがアメリカだった。アフガニスタンの貿易はおもにソビエトだった。そしてソビエトによる経済援助は西側の援助をはるかに越えていた。
外交関係は比較的安定し、さほど問題なかったが、国内では不安定な状態にあった。当時の国内の不安定さが最終的に現在のアフガニスタンの状況につながったと言えるかもしれない。
政治と宗教を分離させるトルコ型の改革は第一次大戦と第二次大戦との間に失敗した。戦後、王国は
1989年、ソビエトは撤退した。
そしてナジブラ政権は弱体化した。内戦を終わらせるため、ナジブラは挙国一致の政府を作ることを提案した。しかしムジャヒディンはナジブラと彼の政党がいる政府への参加を拒否した。
1992年4月、ナジブラは追放され、ムジャヒディンがカブールに凱旋した。内戦が終わった。その1週間後、カブールを占領したムジャヒディン各党派の争いが沸き起こった。臨時大統領が就任し、2カ月後、ラバニが代わって大統領となった。

人々

人口:2,912万1,286人(2010年推計)
人口構成(2010年推計)
年齢 構成比 女性 男性
0-14 歳 43.6% 6,036,673人 6,343,611人
15-64 歳 54% 7,470,617人 7,864,422人
65 歳以上 2.4% 353,520人 326,873人
人口増加率:2.471% (2010年推計)
出生率:人口1,000人当たり38.11人 (2010年推計)
死亡率:人口1,000人当たり17.65 人 (2010年推計)
乳幼児死亡率(1才以下): 出生1,000人に対し151.5人(2010年推計)
平均寿命:(2010年推計)
男性 女性
44.45歳 44.87歳
民族構成: パシュトゥン38%、 タジク25%、 ウズベク 6%、 ハザラ19%、 少数民族
宗教:ほとんどがイスラム教徒である。スンニー派イスラム教徒84%、シーア派イスラム教徒15%、その他の宗教1%。
言語:パシュトゥー35%、アフガンペルシャ語(ダリー) 50%、トルコ語系言語(主としてウズベクとトルクメン ) 11%、30の少数言語 4%
識字率(15歳以上):(2000年推計)
全人口平均 男性 女性
28.1% 43.1% 12.6%
労働力: 1,500万人(2004年推計)
職業:(2008年推計)
農業 製造業 サービス業
78.6% 5.7% 15.7%

地図

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