イラク

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基本情報

国名 イラク共和国(Republic of Iraq)
面積 43万7,072km²(日本の約1.16倍)
人口 2,967万1,605人 (2010年推計)
首都 バグダッド
言語 アラビア語、クルド語(クルド地域では公用語)
宗教 イスラム教 97% (シーア派 60%〜65%、 スンニー派 32%〜37%)、 キリスト教その他 3%
通貨 イラク・ディナール 1 Iraqi dinar (ID) = 1,000 fils
為替レート 1ドル=1,170イラク・ディナール (2009年)
日本との時差
ビザ 不明
国旗  
国際電話  

 
   
   
   

地勢・気候

地図
位置
イラクは、ペルシャ湾に面し、イランとクウェートに挟まれている。
面積
全面積:437,072 平方 km
陸地の面積:432,162 平方 km。
国境線:全長 3,631 km、 イラン1,458 km、 ヨルダン181 km、 クウェート242km、サウジアラビア 814 km、シリア 605 km、トルコ 331 km。
海岸線:58 km
国際紛争
イランとイラクは1990年外交関係を回復した。しかしなお国境線、戦争捕虜に関して8年間の戦争での未解決の問題、航海の自由などに関しての合意を図るための交渉が続けられている。
1994年11月、イラクは公式に、安全保証理事会の決議案 687号 (1991年)、 773 号(1993年)、 883号 (1993年)によって示されたクウェートとの国連管理国境線を受け入れた。これは公式にクウェートとブビヤン、ワルバ島に対する初期の主張を公式に撤回するものだった。
トルコによるチグリス・ユーフラテス川の水資源開発計画に対する潜在的な争いが存在している。
気候
大部分は砂漠である。:暑く、乾燥し、雲もない夏と、温暖、涼しい冬。
イランとトルコとの国境の北部山岳地帯は、ときどき豪雪が降るほどの寒い冬である。その雪は早春に溶け、時々中央および南部イラクに記録的な洪水を引き起こす。
バグダッドの気温と降水量
地形
大部分は、広い平地である。南部のイランとの国境沿いはアシの生い茂る低湿地帯であり、イラン、トルコとの国境沿いは山岳である。
天然資源:石油、天然ガス、燐酸塩、硫黄

政治

正式名称:イラク共和国
首都:バグダッド
独立:1932年10月3日(イギリスの統治による国際連盟委任統治領から)
憲法:2005年10月15日
政体:共和制
投票権:18歳以上の国民
行政府
元首:ジャラール・タラバーニー大統領(2006年4月22日就任)
政府の長:首相 ヌーリー・アル=マーリキー (2006年5月20日就任)
立法府:一院制:国民議会 任期4年・325議席
国会 (Majlis al-Watani): 最近の選挙は2010年3月7日に行われた(次回は2014年)
議席- (全議席325・317議席確定)
政党 議席
イラーキーヤ(イラク合意戦線) 91
法治国家連合 89
イラク国民連合(INA) 70
クルディスタン同盟 43
ゴラン 8
イラク合意 6
イラク統一連合 4
クルディスタン・イスラム連盟 4
クルディスタン・イスラム集団 2
少数民族枠 8
国旗:上から赤、白、黒の等しい水平な3つの帯。白地の中心に5つの頂点のある3つの緑の星 。神は偉大なり(ALLAHU AKBAR)と言う文字が緑色のアラビア語で-Allahuは真ん中の星の右に、 Akbarは真ん中の星の左に書かれている。-1991年1月のペルシャ湾危機の間に付け加えられた。二つの星と文字はないがシリアの国旗に似ている。無地の白い帯のあるイエメンの国旗にも似ている。また白い帯の真ん中に象徴として鷲があるエジプトの国旗にも似ている。

経済

概況
バース党政府は、零細な工業やサービスそして大部分の農業を私営にする一方、工業生産や海外貿易について広範囲の中央計画と管理を行っている。経済は、ほとんどが石油関連産業中心である。石油はこれまでに外貨の約95%を得てきた。
1980年代、イランとの8年に及ぶ戦争での莫大な経費とイランによる石油輸出施設への損害によって引き起こされた財政問題は、政府に耐乏措置を行うことと巨額の借金とのちの外貨の負債の支払い延期に追いやった。
1988年、戦争の終結ののちに、石油の輸出は、新しいパイプラインの建設と損傷を受けた施設の修復により次第に増加した。
農業開発は、労働力不足、塩分化、以前の土地改良と集団化の計画によって引き起こされた混乱により停滞したままである。
工業は、政府によって高いプラオリティを与えられているが、また財政的な束縛の元にある。
1990年8月のクウェートへのイラクの侵攻、のちの国際的な経済制裁、そして1991年1月に始まった多国籍軍の軍事行動により、経済の構図は徹底的に変更された。
激しい損害を被った工業および輸送施設は、部分的に修復されてはいる。
石油の輸出は、いまだ以前のレベルの5%以下のままである。予備の部品不足は続いている。
1993年、1994年には、さらに生活水準は低下している。消費者物価は、1993年、1994年ともに2倍以上に上がった。
国連主導の経済制裁は、輸出、輸入を減少させ、物価は激しい上昇を続けている。
イラク政府は経済制裁を終わらせるために、国連の解決案に素直に従うことを望んではいない。強大な軍事力と国内の保安軍を維持し、体制を維持するために財源を使う政府の 政策は、窮乏を悪化させている。
1993〜94年の一人当たりの生産は、1989〜90年のはるかに下回ると思われる。しかし正確な見積もりは入手できない。 最初の石油は1996年12月にくみ上げられた、最初の食料と医薬品は1997年4月に供給された。 国連安保理決議第986号(石油ー物資プログラム)の遂行として、原油が、現在の価格で、湾岸戦争前の約三分の一の価格で輸出された。 スペアのパーツ不足は続いている。物資購入の為の石油として、イラクは乏しい食料と医薬品との交換のために20億ドル分の石油の輸出を許可された。 1995〜97年の一人当たりの生産および生活水準は1989〜90年の水準を下回っていると思われる。
GDP(MER): 658億3,800万ドル (2009年:IMF)
一人当たりGDP(MER):2,107.910ドル (2009年:IMF)
GDP(PPP): 1,115億万ドル (2009年:IMF)
一人当たりGDP(PPP):3,569.876ドル (2009年:IMF)
国内総生産実質成長率:4.213% (2009年:IMF)
インフレ率(消費者物価):-4.415% (2009年:IMF)
失業率:15.2% (2008年推計)
国家予算:(2010年推計)
歳入:528億ドル
歳出:724億ドル
輸出:408.6億ドル (2009年推計)
商品:原油84%、燃料
相手国:アメリカ27.62%、インド 14.45%、イタリア10.14%、韓国 8.62%、 台湾 5.61%、 中国4.23%、オランダ4.13%, 日本3.99% (2009年)
輸入:554億ドル (2009年推計)
商品:食品、医療、工業製品
相手国:トルコ 24.99%、シリア 17.36%,、US 8.66%、中国 6.79%,ヨルダン 4.17%、イタリア 3.98%、ドイツ 3.97% (2009年)
対外債務:730億ドル(2009年)
工業生産: GNPの9.6% を占める(2009年)
発電量
生産:463.9億 kWh (2009年)
産業: 石油、化学、繊維、皮革、建築資材、食品加工、肥料、金属加工/処理
農業: GNPの9.6%、労働力の21.6%
主要な産物:小麦、大麦、米、野菜、日付、綿、牛、羊、家禽
通貨イラク・ディナール
1 Iraqi dinar (ID) = 1,000 fils
為替レート:1ドル=1,170イラク・ディナール (2009年)
交通・運輸
鉄道
全長2,457 km
主要道路
全長: 45,550 km
舗装:38,400 km
未舗装: 7,150 km (1989年)
通信
電話: 632,000 回線
ラジオ局: AM 16、 FM 1、短波 0
テレビ局: 13

歴史

第一次世界大戦の時、オスマン帝国は、崩壊した。
1921年イラクはイギリスの委任統治領として作られた。そしてファイサル首長が国王となった。生活は改善され、1932年完全な独立を達成した。
1958年7月14日、ファイサル国王は軍部のバース党将校によるクーデターにより殺害され、イラクは共和国となった。まもなくクーデターの指導者二人の間の対立が激しくなった。首相アブドゥル・カリム・カーセムと副首相アブドゥル・サリム・アーレフである。結果は、アーレフが罷免され逮捕される事となった。
カーセムは、1963年に、バース党によるクーデターで殺害された。
アブドゥル・サリム・アーレフは大統領となった。そして穏健派のバース党員による内閣を作った。しかしアーレフはヘリコプター墜落により死に、彼の兄弟アブドル・ラーマン・アーレフ少佐が大統領になった。
アーレフの体制に不満が広がり、1968年7月17日、アフマド・ハッサン・アル・バクル将軍が無血クーデターにより権力を得、大統領となった。
1979年9月、バクル大統領の引退により、サダム・フセインが大統領に就任した。
イランとの関係は、イスラム革命の当初は良好だった。しかし1980年、イラク国内で政府高官に対するテロ計画が相次ぎ、急速にその関係は悪化した。
1980年9月22日、イラクはイランの主要軍事施設を爆撃した。本格的なイランーイラク戦争が始まった。8年間の戦争の後、1988年に停戦が実現した。
しかしこの戦争で、イラクは莫大な対外債務を負った。1990年には、860億ドルにも達した。
この債務を解消するため、イラクはクウェート侵攻を図った。 1990年7月、サダム・フセインは、クウェートがOPECの生産割り当てを越えた生産を行って、原油価格を引き下げていると非難した。またクウェートはイラクとの国境を越えた油田から石油を盗んでいるとも非難した。アラブ諸国はこの問題を平和裡に解決しようとしたが失敗した。
8月2日、イラクは石油資源を求めてクウェートに侵攻した。
国連はイラクに対し、撤兵を勧告したが、イラクはそれを無視し、8月8日、クウェートを併合した。
国連は安保理決議661によりイラクに対して経済制裁を実施した。 アメリカ主導による多国籍軍(アメリカ軍42万5000人、他の27ヶ国の軍26万5000人)が作られた。
多国籍軍の軍事的圧力とともに、政治交渉も様々な形で行われたが、イラクの拒否にあった。
1991年1月17日、多国籍軍の「砂漠の嵐」作戦が実施され、湾岸戦争が始まった。
2月24日、イラクは国連安保理の停戦決議を受け入れ、3月3日、停戦協定が締結された。
イラクに対しての経済制裁が実施された。
2003年3月、国連決議に反して大量破壊兵器を保有しているとして、アメリカ主導によるイラク戦争が起こった。
フセイン政権は崩壊し、フセイン大統領もアメリカ軍に拘束された。しかし、大量破壊兵器は見つからなかった。
その後一年、アメリカ軍を中心とした連合国暫定当局(CPA)によって統治された。
2004年6月28日、暫定政権に主権が移譲された。

人々

人口:2,967万1,605人 (2010年推計)
人口構成 (2010年推計)
年齢 構成比 女性 男性
0-14 歳 38.8% 5,514,794人 5,711,187人
15-64 歳 58.2% 8,303,942人 8,535,550人
65 歳以上 3% 469,701人 410,395人
人口増加率: 2.449% (2010年推計)
出生率:人口1,000人あたり29.41人(2010年推計)
死亡率:人口1,000あたり4.92人 (2010年推計)
乳幼児死亡率(1歳以下):出生1,000人当たり 43.16人 (2010年推計)
平均寿命(2010年推計)
男性 女性
68.88 歳 71.69 歳
民族構成:アラブ人 75%〜80%、 クルド人15%〜20%、 トルクメン人、 アッシリア人その他5%
宗教:イスラム教 97% (シーア派 60%〜65%、 スンニー派 32%〜37%)、 キリスト教その他 3%
言語:アラビア語、クルド語(クルド地域では公用語)、 アッシリア語、アルメニア語
識字率(15歳以上)(2000年推計)
全人口平均 男性 女性
74.1% 84.1% 64.2%
労働力: 817.5万人(2008年)
職業
サービス 農業 工業
59.8% 21.6% 18.7%

地図

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